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Thursday, March 7, 2024

たった4機…幻の攻撃機「連山」の部品発見 群馬の民家に風防ガラス 「現存確認、国内初かも」 :東京新聞 TOKYO Web - 東京新聞

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 太平洋戦争末期に旧日本海軍が開発した攻撃機「連山」の風防ガラスとみられる部品が、群馬県邑楽(おうら)町の民家に保管されていたことが分かった。連山は4機しか製造されず、機体も現存しないため「幻の攻撃機」とも呼ばれる。専門家は「部品の現存を確認できたのは、日本国内では初めてではないか」と話し、当時の航空機製造技術などを知る上で重要な資料としている。(小松田健一)

1944年12月、群馬県大泉町の小泉飛行場で試験飛行を終えた後とみられる「連山」=群馬県立歴史博物館提供

1944年12月、群馬県大泉町の小泉飛行場で試験飛行を終えた後とみられる「連山」=群馬県立歴史博物館提供

 連山 旧日本海軍が1943年に開発に着手し、中島飛行機が製造を担当したエンジン4基の大型攻撃機。4トンの爆弾が搭載可能で、最高時速は約600キロと戦闘機並みの高速を実現し、航続距離は最長約6500キロと長距離の作戦行動が可能な最新鋭機だった。44年10月に初飛行したが、物資不足や度重なる空襲のため終戦までに製造されたのは4機にとどまり、実戦には投入されなかった。

◆興味ないまま長年保持

 保管していた邑楽町に住む相場一夫さん(77)によると、親族が戦時期、軍用機を製造していた中島飛行機小泉製作所(現在の群馬県大泉町)に勤めていた。40年ほど前、この親族が終戦後に工場から風防ガラス38枚を持ち出し、自宅に保管したと聞かされ、相場さんはこのうち10枚を持ち帰ったが、興味を持たないまま倉庫へ保管し、時間が経過した。

連山の風防ガラスとみられる部品を手にする相場一夫さん=群馬県邑楽町で

連山の風防ガラスとみられる部品を手にする相場一夫さん=群馬県邑楽町で

 しかし、数年前に郷土史の書籍を読んだ際、掲載されていた連山を正面から撮影した写真で、機体前方にある爆撃手席の風防ガラスの形状が保管しているものと酷似していることに気が付いた。10年ほど前から、1945年2月の太田空襲時に地元に墜落した米軍爆撃機B29について調べていたこともあり、一気に関心が高まった。

◆発見のガラスは高度な技術を使用

 元陸上自衛隊員で、第2次世界大戦期の軍用機の保存、修復に取り組んでいる中村泰三さん(55)が実物を調査。残された文献資料と照合したり、模型メーカーの協力を得て3Dスキャンで解析したりした結果、高い確率で連山の操縦席や爆撃手席に取り付けられた風防ガラスとの結論を得たという。

 中村さんは「爆撃手席部分の風防ガラスは爆撃手の視界を確保するため、2枚の強化ガラスを重ねて内部の空気を吸湿装置とつなぎ、曇りどめ構造になっているなど高度な技術が使われていたことが分かった」と指摘する。

◆「後世に戦争を伝える一助に」

 連山は終戦直後に1機が米軍に接収され、米国では計器パネルの存在が確認されているが、国内での部品発見は初めてという。中村さんは「戦争の記憶を伝える側面と、近代化遺産、航空遺産としての側面双方があり、非常に価値が高い資料だと思う」と話した。東京文化財研究所(東京都台東区)でガラス組成などを分析し、さらに詳しい調査が続いている。

 相場さんは、風防ガラスを群馬県立歴史博物館(高崎市)へ寄贈した。「保管を続けていて良かった。後世に戦争を伝える一助になればと思っています」と話した。

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