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Tuesday, January 11, 2022

高校サッカー界の名将 小嶺 忠敏 さんに別れ「出棺のクラクションはキックオフの笛」【長崎県】 - www.fnn.jp

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1月7日に亡くなった高校サッカー界の名将 小嶺 忠敏 さんの告別式が、出身地の南島原市で9日 営まれ、約1500人が別れを告げました。

小嶺 忠敏 さん。技術に偏ることなく、人間教育に重きを置いて、数多くの選手を育てました。

告別式が営まれた南島原市の式場には、サッカー界にとどまらず、全国各地から届いた花が式場の外まで並びました。

日本サッカー協会の 田嶋 幸三 会長のほか、教え子の高木 琢也 さん、平山 相太 さんも姿を見せ、名将の突然の死を悼みました。

1945年、現在の南島原市に生まれた小嶺 さんは、島原商業を指導していた時、自らマイクロバスを運転し、時には24時間かけ遠征で出かけていました。

生徒たちと取り組んできた日本一の練習量はやがて実を結び、国見などを通算で17度の日本一に導きました。

小嶺 忠敏 さん(2004年 高校サッカー選手権 優勝報告会) 「やもすれば、この子たちはまだ、16、17、18歳の子供であります。人生90年で後が長いわけであります。こういう優勝することによって、頭がおかしくなる生徒がいる。これがスタート。自信を持つことは結構だが、過剰になるのが怖い。これから大きな目標に向かって進んでいく。今ので自己満足したら、全く優勝の意味がない」

定年後は長崎総合科学大学附属高校の指導に当たり、2021年度のチームも第100回の選手権へ導きました。

しかし、体調を崩して、12月中旬から長崎市内の病院に入院し、1月7日に永眠。

最後にピッチで指揮を取ることはできませんでした。

喪主代理 長女 ゆりさん 「入院しているとき、玄関にワゴンを用意して『今すぐ荷物をまとめて東京に行くぞ。車だったらずっと寝たままでも15時間かければ行ける。どうにか退院させろ』と、何度も何度も生徒の待つ東京に行きたいと訴え続けました。父が帰りたい場所は子供たちが待つサッカーグラウンドだったのだなとそのとき感じました」

J3 相模原 監督 高木 琢也 さん 「出棺される際のクラクションの音が、僕にはキックオフの笛にしか聞こえなくて。小嶺 先生がいたからこそ、まずは長崎のサッカーも色々な意味で発展したと思います。言い訳をしない、人としての規律を守っていくことが新たなサッカー選手を作っていくことに必要なのかなと思います」

亡くなる直前まで若い世代の育成に力を注いだ生涯指導者でした。

長崎総合科学大学附属高校 サッカー部 3年 別府 史雅 さん 「ずっと元気だった小嶺 先生が亡くなったのは、いまだに信じられないし、ショックが大きい。謙虚にと言っておられていたので、これからの人生も謙虚にやっていきたい」

長崎総合科学大学附属高校 サッカー部 出身 田中 純平 さん「本当に亡くなったのが、今でも信じられないくらい生前と変わらない顔をされていました。(J3 テゲバジャーロ宮崎への入団を)直接、報告したかったができなかったので、自分がピッチの上で走り回る姿を天国で見ていただけたらと思う」

人間教育を貫き通した小嶺イズム。

今後も教え子たちを通し、長崎だけでなく全国に息づいていきます。

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からの記事と詳細 ( 高校サッカー界の名将 小嶺 忠敏 さんに別れ「出棺のクラクションはキックオフの笛」【長崎県】 - www.fnn.jp )
https://www.fnn.jp/articles/-/296636

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