
このレアな存在である蹴球放浪者は、いったいどこからやって来て、どこへ行こうとしているのか。その果てしないサッカー旅は、いったいいつ、どこで、どういう理由で始まったのだろうか。今回は、ついにその謎のベールがはがされる。さあ、東西、東西~。 【画像】55年前のJSL入場券と64年東京五輪の寄付金付き切手
■何が何だか分からなかったサッカー観戦初体験
観客数は6万5793人となっていますが、おそらくそのほとんどが動員された小中高校生たちだったのでしょう。 試合は、東京、メキシコの2大会を連覇するハンガリーが6対0で圧勝。その6ゴールすべてをフェレンツ・ベネが決めるという凄い試合だったのですが、そんなことは当時の僕はまったく知りませんでした。ご承知のようにベネは1966年のワールドカップでも大活躍するワールドクラスの選手です。 なにしろ、子供たちはサッカーというものを知りませんでした。「サッカーに行く」ということが分かった時には「サッカーって何だ?」と学校に置いてあった百科事典(懐かしい響き!)で調べたりしたものでした。 僕は父がサッカー経験者だったので、年に1度か2度くらいあるテレビ中継を父親が見ていましたからある程度は知っていましたが、とにかくスタジアムに足を踏み入れるのは初めてでした。 真っ赤なアンツーカーの陸上競技用のトラック。そして、その中央の緑の鮮やかな芝生の美しさは印象的でしたが、バックスタンド上段やや北側の電光掲示板寄りの席からは選手たちの姿は小さくしか見えません。サッカー自体をよく知らないのでは何が何だか分からないのも無理はありません。 動員されて無理やり連れてこられた小学生たちは、試合そっちのけでワイワイガヤガヤと騒いでいたのですから、ベネに対しては失礼極まりないことでした。
■その時、歴史が動いた
ところが、この時に多くの子供たちがサッカーに連れて行かれたことで歴史が動きます。 試合などロクに見ていなかったのですが、なんとなくサッカーが面白そうだったのでしょう。子供たちはサッカーで遊ぶようになりました。僕は翌年、やはり公立の中学校に入学したのですが、男の子たちは休み時間と言えば皆、廊下でタワシを蹴って遊んでいたものでした(僕も早速中学のサッカー部に入部しました)。 こうして、競技人口が大きく拡大。そして、日本サッカーリーグ(JSL)も開幕してサッカー・ブームがやって来ます。中学生だった僕もJSLを観戦に行くようになり、古河の試合を見に行くと(時々ですが)代表監督だった長沼選手も出場していました。 そして、4年後、日本代表はメキシコ・オリンピックで銅メダルを獲得します。ブームのおかげでテレビ中継も増え、1970年のメキシコ・ワールドカップは東京12チャンネル(現テレビ東京)で全試合が録画放映されました。 東京とメキシコのオリンピックで活躍したものの、それは一握りの代表選手を集中強化したチームでした。その後は、若手の育成ができていなかったので日本サッカーは再び低迷してしまいました。 しかし、指導者の中には個人技中心の指導を始める人も現われ、少年層のレベルも次第に上がっていきます。1960年代から1970年代にサッカーを始めた少年たちが大人になる頃(つまり1990年代)には日本人選手のレベルも上がってきました。 1964年に東京でオリンピックが開催されていなかったら、日本のサッカーはもしかしたら今でもマイナーなままだったかもしれません。少なくとも、新宿に住んでいた内気であまり家の外にも出たがらなかった少年が、世界88か国を放浪するようになることはなかったでしょう。
後藤健生
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