若き日には国立競技場のスタンドで日の丸を振っていたベテラン・ジャーナリストは、さまざまな経験が豊富である。ソウル・オリンピックではどうしても資料が必要になって、ADカードを持たないのに、プレスセンターへの入室を試みた――。 同年のEURO88の入場券。西ドイツ対スペイン
■オリンピック史上最高レベルのサッカー競技
これまでのオリンピックのサッカー競技の歴史の中で最もレベルの高い戦いが見られたのは、間違いなく1988年のソウル・オリンピックでした。 ご承知のように、昔のオリンピックはアマチュア選手だけの大会でした。 1964年の東京オリンピックの時、日本と同じ組にイタリアも入っていたんですが、イタリア代表にサンドロ・マッツォーラとかジャンニ・リヴェラという名前の若い選手が含まれていて、「あれは、ほんまはプロちゃうんか?」ということになって、結局イタリアは棄権してしまいました(そのおかげで、日本はアルゼンチンに1勝しただけで、準々決勝進出が決まったわけです)。 しかし、1980年代に入ると国際オリンピック委員会(IOC)はプロ選手の参加を解禁しました。それどころか、その後は各競技団体にトッププロの参加を要請し始めたのです。オリンピックの人気を高めるため=IOCの収入を増やすためです。 その結果、バスケットボールにはNBA選抜の「ドリームチーム」が出場するようになります。一方で、ベースボールはMLBがメジャーの選手の参加を拒否しています。 で、サッカーの場合も、IOCはすべてのプロの参加を求めます。しかし、ワールドカップの権威を守りたいFIFAはそれに反対。結局1992年のバルセロナ大会からオリンピックはプロも含む23歳以下の選手による大会となり、1996年のアトランタ大会からはさらにオーバーエイジ3人の参加も認められました。 その“端境期”に当たったのがソウル大会でした。
■クリンスマン、ベベト、カレカ、ロマーリオも
この大会には、ヨーロッパ、南米のチームはワールドカップ出場経験がなければ出場可能。その他の大陸の国はすべての選手が出場できました。ですから、1986年のメキシコ・ワールドカップ以降に代表入りした選手は出場できたわけです。 そこで、同じ1988年に開かれたヨーロッパ選手権(EURO)で活躍した西ドイツのユルゲン・クリンスマンとか、トーマス・ヘスラーなども出場していたのです。 10月1日にソウル・蚕室のオリンピック主競技場で行われた決勝戦はソ連(まだ、存在していました)対ブラジルというカードになりましたが、ソ連にはやはりEUROで活躍したアレクセイ・ミハイリチェンコがいましたし、ブラジルではGKのタファレウやジョルジーニョ、ベベト、カレカ、ロマーリオといった1990年代に大活躍する選手たちがプレーしていました。 しかし、オリンピックの試合ですから、観客は必ずしもサッカー・ファンというわけではありません。「オリンピック見物」にやってきたお年寄りなんかもたくさんいます。試合の途中に団体がゾロゾロと入ってきたり、途中で帰ってしまう人たちもいて、場内はざわついて落ち着かない雰囲気でした。 しかし、時間の経過とともに次第にスタジアムの空気が変わっていきました。 前半29分にCKからロマーリオが決めてブラジルが先制。61分にソ連がドブロヴォルスキのPKで追い付き、試合が延長に入るころには7万人の観客はすっかり試合に集中していました。それほどの好試合だったのです。一進一退の攻防が続き、結局、延長前半の103分に縦パスに合わせて抜け出したサヴィチェフが決めてソ連がリードしますが、その後、悲願の金メダルに向けて攻勢を強めるブラジルに対して「ブラジル、ブラジル」というコールが自然発生的に湧き上がってきます。もう、「オリンピック見物」といった雰囲気はまったくありません。 大型映像装置には、ブラジルのカルロス・アルベルト・ダ・シルバ監督(後に、読売サッカークラブ監督)がベンチでボロボロと大粒の涙を流し始めた姿が映し出され、場内は感動に包まれました。
からの記事と詳細 ( 史上最高レベルの五輪サッカー「88年ソウル五輪」の記憶(サッカー批評Web) - Yahoo!ニュース - Yahoo!ニュース )
https://ift.tt/3socfbv
No comments:
Post a Comment