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Thursday, December 24, 2020

(34)サッカー評論家になった父 - 熊本日日新聞

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 父の重徳は、私が指導する高校生たちの試合には、熊本商でも、大津高でも、毎回のように顔を出しました。しかも、やたらとサッカー部事情に詳しいのです。

 どうやら実家に戻った私が酒を酌み交わしながら話した選手たちの特徴を覚えていて、試合の時に観察していたようです。「〇〇君はふだんの頑張りがプレーに表れている」だとか「××君はサボり癖が抜けないねえ」だとか…。

 退職時は小学校の校長でしたが、中学校勤務時は英語教師で、どの学校でもバレーボール部の顧問を担当していました。もともとスポーツは好きで、何をやらせても万能。それが高じて、退職後は完全にサッカー観戦が趣味になり、評論家のようでした。こうなると、子供のころとは打って変わり、私も父と酒を飲みながらサッカー談議をするのが楽しみになっていました。

 病気一つしなかった父でしたが、2011年、78歳の秋に体調を崩しました。検査の結果、がんと判明。難しい症例で国内では名古屋大しか治療できないと言われましたが、父はためらいなく名古屋行きを選択しました。病院も手を尽くしてくれましたが、1年後、父は亡くなりました。

 父の最期はとても穏やかで、みじんの悔いもない表情でした。私はそんな父の手を取りながら「ありがとうございました」とつぶやくのが精いっぱいでした。

 葬儀を初めて取り仕切る私を助けてくれたのは、大手葬儀社に就職していた教え子の藪内賢君でした。名大病院から熊本まで父のひつぎを送る手配をあっという間にしてくれたのです。また、千人入る告別式の会場まで対応してくれました。

 ただ、ほっとしたのもつかの間でした。告別式が、全国高校サッカー選手権出場がかかった県大会の準決勝と重なったのです。告別式の前に火葬することになったので、迷いもありましたが、私がいないことで生徒たちに心細い思いをさせて、悔いの残る結果を招いてはいけません。試合と式の会場は近いので、ぎりぎり何とかなると思い、火葬のボタンを押して、試合に向かいました。

 試合会場のスタッフは皆驚いていましたが、喪章をつけてプレーしていた主将の植田直通君(現日本代表、セルクル・ブリュージュ)が私の姿を見つけ、手を挙げてくれました。試合は4-0で勝利。私も試合終了後すぐさま告別式に向かい、間に合いました。

 後で生徒たちに話を聞くと「植田のやつ、監督の姿を見て泣きながらプレーしてました」。顔はごついですが、優しい男です。

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