「普通ではないですね」。その選手は、自らのサッカー人生を振り返ってこう笑った。田島翔37歳。2020年12月から、欧州サンマリノのSSペンナロッサに所属することが決まった。優勝すればUEFAチャンピオンズ・リーグ(CL)予選の出場権を獲得できるリーグだ。田島にとって実に海外7か国目の挑戦となるが、これまで代理人も通訳もつけたことがない。クラブとの契約交渉から、監督・選手との会話まですべて自力でやってのけてきた。
メディアに対しても「自分を取材してほしい」と自ら売り込む珍しい選手だ。「エリートではない」と自認するそのサッカー人生は苦難の連続。一体何が彼を突き動かすのか。「カズ」こと三浦知良(53)に憧れてサッカーを始めたという田島翔に、波乱万丈のサッカー人生を聞いた。
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ラスベガス・シティ在籍時の田島翔
高卒時、Jクラブに電話をかけるも...
イタリア半島の中東部に位置するサンマリノは、面積が世界で5番目に小さく、人口は約3万3000人。小さい国ながらサッカーリーグ「カンピオナート・サンマリネーゼ」は人気だ。
「年齢のことも考えると、最後はヨーロッパ、それもCLを目指せるクラブでプレーしたいと思っていました。ただ、イタリアやスペイン、イングランドのような強豪リーグには手が届かないので...『穴場』といいますか、自分に合ったリーグを探していた中、サンマリノのペンナロッサと出会いました。今回、初めてサンマリノにサッカーリーグがあることを知ったんです。調べていくと、町自体が世界遺産だったり、日本の神社があって親日家の方が多かったり、『ルパン三世』の舞台になったりしていることを知りました。サッカー界にはイタリア・セリエAでプレーしていた選手もいて、サッカーが文化として根付いている『カルチョ』(編注:イタリア語で「サッカー」の意)の国です。どんどん『この国でプレーしたい』と思うようになりましたね」(田島翔。以下同)
海外クラブとの交渉はすべて自分で行う。今回も履歴書とプレー映像集を自分でクラブに送って売り込んだ。交渉して契約に至るまで2か月ほど。「新型コロナウイルスの影響で、そもそもリーグを開催するかどうかという議論もあり、時間がかかりました」。函館の住まい(後述)から、12月8日にサンマリノへ出立する。ポジションはMF。背番号は8番を託された。
田島はサッカーのエリートではない。Jリーガーを夢見てサッカーを始めたのは小学校5年の時。Jリーグが創設された1993年のMVPで元日本代表、今も現役のカズに憧れた。だが、函館工業高校を卒業するまでトレセンや選抜に入ったことはない。大会で優勝したこともない。卒業時、あるJリーグクラブに電話をかけ「入団テストを受けたい」と頼み込んだが、即答で断られた。
それでもサッカーへの思いは人一倍強く、プロになる道を探す。「日本では無名選手だとテストすら受けさせてもらえない。だから経歴を作るしかない」。そう考えた田島が修行の場として選んだのは、シンガポールへのサッカー留学だった。
「本当はカズさんと同じようにブラジルへ行きたかったんですが、費用面で折り合いがつかず...。行き先を探す中、東南アジアでこれからサッカーが盛り上がってくるという話を聞いていたので、シンガポールで実績づくりすることを選びました」
サッカーからフットサルへ転向
1年間の留学を終え帰国。それでもそう簡単にJリーグクラブには入れない。田島が次に選んだクラブは、まだ創設間もないFC琉球(当時沖縄県1部、現J2)だった。「ラモス瑠偉さんが発足に関わっていて、クラブはJリーグ入りが目標だったんです。Jが無理なら、J入りを目指すところに行きたいと思いました」。そんな道筋を立ててJリーガーを目指した。
FC琉球は九州リーグ、JFLへと怒涛の昇格を果たしていくが、田島は大ケガを負う。試合中に相手選手のタックルを受けて骨折したのだ。皮膚からすねの骨が出る重傷だった。
在籍3年半、リハビリ中に契約満了で退団する。復帰した時には国内のリーグは開幕していた。そこで、まだリーグが開幕していなかった欧州に目を向けた。
「クロアチアですね。カズさんがかつてディナモ・ザグレブでプレーしていたのと、『東欧のブラジル』と言われるほどテクニックのある選手が多い国だったので。クロアチア2部のヴァルテクスの入団テストを受けて入りました。日本人選手を見ると『ミウラ!』と呼ばれる国でしたよ」
その次はスペインのロセス(当時5部)に所属するが、在籍中の2011年、東日本大震災が起きたことで心境が変わる。「今帰国するのは危険だと言われていたんですが、やっぱり日本に帰りたいと思いました」。どうにか日本のクラブでプレーできないか。スペインで手当たり次第にサッカー関係者と話していく中で、ロアッソ熊本の幹部と知り合いの日本人に巡り会った。
練習参加を経て12年に入団。それも、ロアッソは当時J2だ。18歳のころに抱いた「Jリーガーになる」という夢がこの時実現した。
「29歳だったので、高校卒業から丁度10年でした。10年かけてJリーガーになるのは間違いなく遅い。ただ、諦めなければ目標は叶うんだと改めて感じました」
ところが、ロアッソは1年で退団することになる。「熊本でJリーガーになる夢を叶えて、燃え尽きてしまったんです。それくらい目標としていた地点でした」。そして、田島は環境を変える。
「フットサルに転向しました。シュライカー大阪(Fリーグ)のサテライトに入りました。それも、カズさんがフットサルに参入して日本代表に選出された時だったことが大きかったです」
この転向を経験したことが、現在まで田島に大きな影響を与えることになる。「半年ほど経って、逆にサッカーの面白さに気づいたんです。またサッカーをやりたいと思ってしまいました」。田島のサッカー熱に再び火がついた。
ニュージーランドで学んだ「監督とのコミュニケーション」
オンライン取材に応じた田島
国内で所属先を見つけようとはしなかった。「海外に出ていろんな国のサッカーを知りたい。サッカーを通じてその国の文化を勉強したい。世界観を広げたい。そこに面白さを見出しました」と、海外でのプレーにこだわるようになっていた。足掛け10年で「Jリーガーになる」という目標を達成した田島が、次に据えた目標だった。そしてニュージーランドのオークランド・シティに入団するが、ここでも試練が待っていた。
「これまで同様、僕自身がクラブと契約交渉して入団を決めたんですが、監督が僕の入団を知らなかったんですよ。合流日に練習に行ったら『お前は誰だ?』と。『え、クラブから聞いてないんですか?』『何も聞いてない』と。一気に監督の機嫌が悪くなりました。自分が知らされていない選手が入団するのは面白くないじゃないですか。だから最初の半年くらいは干されました。それがつらすぎて、1年以上は在籍するつもりがありませんでした」
しかし田島はポジティブだ。この経験も「すごく勉強になりました」と言うのである。
「クラブとコンタクトを取る時は、フロント(経営陣)が相手なんです。その時に、監督にもプレー映像を見せるとか、監督が戦力として欲しがってくれているのかとか、監督ともコミュニケーションをとる必要がある。日本のクラブだったら当然フロントから監督に伝えられるんですが、日本の常識は海外では通用しないと肌身で感じるようになりました」
新天地は米国。プロリーグMLSの人気の高まりなど、サッカーが盛り上がりを見せていた。元日本代表監督アルベルト・ザッケローニ氏の右腕だったステファノ・アグレスティ氏が監督をつとめる独立リーグのマイアミ・ユナイテッドの存在を知り、加入を決める。入団後には、元ブラジル代表FWアドリアーノがマイアミに加わり、選手として大きな経験を得る。
「アドリアーノ選手は、体力はもうあまりなかったんですが、足元や体の強さ、左足の強烈さは健在でした。これが世界トップレベルなんだなと、一緒にプレーしていて思いましたね。アドリアーノ選手と同僚だった日本人選手は、僕と中田英寿さん(編注:パルマ時代にチームメイト)だけでしょう(笑)」
新型コロナウイルスで予定が崩れ...
1年の在籍を経て、次は同じ独立リーグのラスベガス・シティへ。ここでも衝撃のトラブルに見舞われる。
「ある日、入国時にビザで引っかかって、留置所に連れていかれたんですよね。結局問題なく解放されたんですけど、『なんだこの国は...』と思っちゃって、プレーできない時間ももったいなかったです。だから留置所の中で、次のクラブにコンタクトを取ったんですよ。携帯電話は使えました。日本からラスベガスに行く時は韓国経由だったので、韓国はどんなサッカーなんだろうと思うことは多かったです」
結果、2018年に韓国Kリーグ3部のソウル・ユナイテッドに入団。だが、またも身の振り方を考える出来事が起こる。日韓関係の悪化だ。安全面を考慮してチーム関係者から「今日は外に出ないほうがいい」と言われ、プレーできない日も多くなった。田島は現地の日本人向けにサッカー教室を運営していたが、帰国する生徒も増えた。韓国でのプレーに見切りをつけ、「最後は地元に恩返しを」と、2019年末にFC函館ナチャーロ(函館1部)でプレーする決意をした。
「でも結局、ナチャーロで選手登録はしていないんですよ。もともとクラブから給料はもらっていなくて、今年1月に函館で立ち上げた『フットライズサッカーアカデミー』というサッカースクーで、月謝をいただいて生計を立てるつもりでした。ところが、2月ごろから新型コロナウイルスが蔓延し、北海道で外出自粛がはじまりました。予定していたリーグ開幕は延期になり、スクールも常時開催から不定期開催の教室に切り替えることになりました」
不定期開催のため、スクールで月謝はもらえない。これまでも帰国時にサッカー教室を開いていた関係で、生徒は40人ほど集まっていた。今後も増える見込みだったが、想定していた収入は一気になくなる。これでは生活できない。リーグ開幕延期に伴い、選手登録の時期もずれ込んでいた。この際函館で選手登録することを諦め、もう一度プロサッカー選手として稼ぐ道を探すことにした。そして出会ったのが、冒頭のサンマリノ、ペンナロッサである。
「諦めなければプロになれる」ことを伝えたい
自主トレ中の田島
田島はサッカー人生において、一貫して自ら営業と契約交渉をしてきた。プロサッカー選手は代理人(エージェント)がついて契約交渉するのが一般的だが、「無名」の田島にとっては自力で交渉することが当たり前だった。
フットサル転向からサッカーにカムバックし、ニュージーランドへ渡った30歳ごろから、考え方に変化が起きた。選手として活躍したい思いは当然ながら、サッカーを通じて人や町、そして企業とも交流することを重要視するようになった。サッカーの実力は大前提として、自身が入団することで発生し得る「メリット」もアピールするのが、当たり前となってきた。
「海外でプレーする時には、現地の日本人にもスタジアムに足を運んでほしいですから、現地の日系企業にもあいさつするようになりました。すると『チームを応援したい』『チームのスポンサーになりたい』『現地で頑張っている日本人を応援したい』と言ってくれるんです。実際にスポンサーについてくださることも増えました。クラブとの契約交渉の時、話がほぼまとまって入団できそうだなというタイミングで『もしかしたら日本企業が応援してくれるかもしれないから相談してみる』と持ちかけますね。今回のサンマリノでも、日系企業のアトムソリューションズさんがユニフォームスポンサーに決まりました。クラブ関係者も喜んでくれました」
メディアにも「取材してくれないか」と自ら売り込む。これも30歳をすぎてから。「図々しいですよね」と田島は笑うが、ただ目立ちたいとか、自分の選手としての価値を上げたいとかいった考えではないという。
「サッカー教室を開くようになって、子どもや親御さんから『トレセンに選ばれなかったからプロにはなれないな...』という話をすごくよく聞きます。でも、そうじゃない。有名選手じゃなくても諦めなければプロになれるんだと知ってほしいし、勇気づけたいんです。だからメディアの方々を通じて僕の経験を発信することで、誰かの力になれるんじゃないかと思うようになりました。海外でプレーするうちに、いろんな国のサッカー文化を伝えていきたいという思いも強くなりましたね。今回はサンマリノで日本人として初めてプレーすることになったので、どうにかして日本の方々にも発信したかった。サンマリノやラスベガスにサッカークラブがあること自体、知らない人は多いですから」
「30歳までに引退し、安定した仕事に就いてセカンドキャリアを歩む」と思っていたが...
プロサッカー選手として珍しい「セルフプロデュース」の数々は、田島に多大な経験をもたらしている。新たな所属先と交渉する際も「ぜひ経験をチームに還元してほしい」と言われる。フロントの会議の場に入ってアドバイスしたこともある。海外を転々とし、積極的に視野を広げてきたからこそ、日本の良さも改めて感じることができている。
「チームがどういう選手を欲しがっているかとか、企業とどういう点で結び付けると互いにメリットが生まれるかとか、選手としては普通考えないこともやりました。僕自身、将来的にはサッカークラブのマーケティングの仕事にも興味があって、やっぱりサッカーを通じていろんな人の交流が生まれることが楽しいです。繋がりを作ることはよく考えます。今回で言えば、サンマリノのチームのグッズを日本で売るとか、チームにマスコットキャラクターがいないので日本のアニメ関係の会社にキャラクターを作ってもらおうという話もあります。欧州では日本アニメの人気がすごく高いですから。そういった交流も生み出していきたいです」
苦労の連続でもある。言語の壁は毎回ある。辞書を常に携帯し、意図がすべては伝わらなくてもどうにかコミュニケーションをとってきた。日常会話レベルの英語はこなせるようになり、契約関係の重要な内容のみ専門家に確認してもらう。
通訳をつけようとは考えなかった。「もし通訳がいたら頼ってしまう。自分にとって海外でプレーする意味、つまり現地の人や町に触れて学んでいくという楽しみも半減してしまうと思いました」と即答する。基本的に会話は英語だが、スペイン語やクロアチア語など、現地の公用語も最低限勉強してから臨んでいる。「それが礼儀だと思うから」だ。
「伝えたいことが伝わらないもどかしさや、不便さはすごく感じてきました。それでもボールひとつで海外の選手と一緒に熱くなれる。世界でサッカーをやっていると実感する瞬間が喜びになります。言語についても、この年で勉強ができるのは幸せなことです」
昔から好奇心旺盛で、自分でやらないと気が済まない性分。「考えすぎると足を踏み出しづらくなる。勢いで(海外へ)行ってしまうこともありました」。高校のころは「30歳までに引退し、安定した仕事に就いてセカンドキャリアを歩む」と思っていたというが、実際は逆に30歳を過ぎてから情熱を取り戻してさえいる。
「フットサルに転向し、いったんサッカーから離れたのが逆に現役への思いを強くしました。練習を休むと不安になります。そういう気持ちがあればまだ現役で戦えると思っていますし、まだ燃え尽きていない。高校生のころ思い描いていたのとは全然違うサッカー人生ですが、楽しんでいますし、少しでも長くサッカー選手でいたいと思っています」
バイタリティの源は「目標に向けて日々の生活を送っていくこと」。それが生きがいだという。新天地サンマリノでの目標はCL出場。高卒から約20年にして、CL争いができるクラブに所属するのは初めてだ。「昨シーズンはリーグ4位ですから全く不可能ではありません」。憧れたカズは53歳の今も現役。この無名の日本人選手のサッカー人生は、どこまで続いていくのだろうか。
(J-CASTニュース編集部 青木正典)
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December 06, 2020 at 08:30AM
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