J2水戸ホーリーホックの小島耕社長は、もともとサッカーライターだった。2019年にクラブにかかわりを持ち、2020年7月に社長に就任した。「なぜ私がJクラブの社長に」。本人も驚いた仰天人事の裏側には、クラブ経営の構造的な課題があった。経営改革の舞台裏を小島社長に聞いた——。(前編/全2回)
お世辞にもキレイといえないグラウンドにジーコが現れた
——もともとはボランティアのサッカーライターとして活動されていたそうですね。どのような経緯で、水戸ホーリーホックの社長になったのですか?
私自身、自分がJクラブの運営にかかわるなんて、思ってもいませんでした。
私が生まれ育った茨城県鉾田市は、甲子園に出場経験がある鉾田一高の影響で、野球が盛んな町でした。そんな田舎町の雰囲気が一変したのが、1993年です。
Jリーグが発足し、鹿嶋市や鉾田市(当時は鉾田町)、行方市などの5つの市をホームタウンにするに鹿島アントラーズが誕生した。住友金属のお世辞にもキレイといえないグラウンドにジーコ(元ブラジル代表MF)が現れたんです。
いままで、野球にしか関心を示していなかった地元のおじさんや子どもたちが、アントラーズのグッズを持ちはじめた。もっぱら野球だった話題も、サッカーに“侵食”されていきました。いつの間にか、うちのオヤジも赤いジャンパーを着るようになりました。家族や友だちもサッカーにはまっていく。大げさではなく、新たな文化が町に根付いていくプロセスを目の当たりにしました。
予備校に行くよりも、アントラーズ観戦のほうが多かった
いま思えば、スポーツが持つ底知れる力を実感したんでしょうね。また、いままで自分が知っていたスポーツとは違うとも直感しました。高校3年生だった私にとって、サッカー文化が育っていく風景が原体験となったんです。
将来、なにを目指すか。当時はなにも決めていなかったのですが、スポーツにかかわる仕事をしてみたいな、と漠然と考えるようになったのです。
——従来のスポーツとどんな違いを感じたのですか?
たとえば、プロ野球でも高校野球でもいいのですが、スポーツは与えられるモノだったように思います。テレビをつければ、中継が流れているのが当たり前だった。受け身で楽しんでいました。
しかしアントラーズの出現で、私自身がスポーツに能動的にかかわるようになっていきました。まだインターネットもない時代です。スポーツ新聞やサッカー雑誌で情報を仕入れ、グラウンドで練習を見学し、スタジアムに通う。ちょうど高校を卒業して浪人生だったのですが、予備校に行くよりも、アントラーズのゲームを観戦したほうが多かったくらいです。チケットを手に入れるために、チケット売り場の近くに張ったテントで、3泊した経験もあります。熱狂的アントラーズサポーターになった結果、浪人を2年してしまいました。
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